2019.2.11
雄勝法印神楽とは、古くは山伏神楽とか大乗神楽と呼ばれていたことが千葉家所蔵の御神楽之大事という古文書(元文四年西暦1739年)に記載されていて、修験者山伏が一子相伝で口伝で伝承してきました。
法印神楽にも本山派と羽黒派があり雄勝法印神楽は羽黒派に属するそうです。
修験は羽黒派・本山派・当山派に分類され、羽黒派とは、山形の出羽三山(月山・湯殿山・羽黒山)を拠点とした羽黒派修験のことで、本山派とは京都の聖護院を拠点とした修験で、当山派とは京都の醍醐寺三宝院を拠点とした修験のことです。
<修験道とは>
日本の古神道、山岳信仰と密教(仏教)が習合している宗教のことです。修験道の行者を修験者や山伏と呼びます。
<法印とは>
法印とは、僧侶の階位ですが、修験者のうち指導する立場にあるものにも与えられました。ここから、修験者を指す言葉として「法印」が使われております。
修験道は仏教と神道の両者の性質を併せ持っているのですが、明治時代には、神と仏を一緒に崇拝することを国の施策で禁じられました。修験道も禁止されたので、修験者は、仏教の僧侶になったり、神社の神主になったりして、お寺であれは、神道由来の言葉を除き、神社であれば仏語を除いてそれぞれの立場に身をおきました。
神主になった修験者も「法印さん」という呼び方が残って、神主のことを法印さんと今でも呼んでいる地域は沢山あり、石巻地方もその一つです。
<法印神楽とは>
法印神楽は、修験者(法印)により伝えられました。明治時代以降は、修験者が神主になった神社に伝承されました。
法印神楽を舞うには10人位の修験者が必要になりますので、修験の家に一子相伝で伝えられているので、お互いの修験者同士が協力しないと成立しません。
そこで、同じ羽黒派の神楽が伝承される直近の修験道場の家などでグループを形成します。雄勝は桃生郡内の「羽黒派桃生十法印」と呼ばれる桃生町・河北町・北上町の羽黒派修験者と緊密な関係を維持して神楽を舞ってきたのです。
今でも、同系の神楽として存続している北上町や釜谷尾ノ崎、本吉、波伝谷の団体とは協力体制にあります。
本山派である石巻市の牡鹿法印神楽も近隣の本山派の修験者と本山派十ケ院を形成していました。
<特徴>
羽黒派の法印神楽は、太鼓2人、笛1人で構成されていて(本山派は太鼓が1人)舞は、勇壮・豪快なのが特徴です。
太鼓は宮太鼓を使用し打面直径がおおよそ一尺五寸位のを使用します。笛は篠笛四号六穴を使用します。
神楽の内容ですが、法印と名がついているのですが、日本書記・古事記の神話物語で構成されています。この理由も、明治元年の神仏分離が施行され神と仏の習合を禁じられたため、往古のままでは舞うことができなくなり物語りを日本書紀や古事記の内容として佛語等を除いて組み直したことによります。しかし、舞の中には、明らかに仏系の所作と思われる部分も多々あり、神仏混淆を垣間見ることができます。
年 表 |
元文四己未歳 大正元年 「十五浜神楽団」結成 昭和27年 無形文化財として当時の文部省の指定を受ける 昭和52年11月20日 第1回石巻桃生牡鹿地方神楽大会出演 昭和57年6月26日 「宮城県無形民俗文化財」に指定 昭和61年7月 両天、三天、宇賀玉、叢雲、橋引、醜女退治、空所、順唄、白露、荒神舞、二之矢の11番を専門業者によりビデオ撮影し保存 平成3年1月21日 保存会役員改選 会長 髙橋仁夫 副会長藤井直保 平成3年8月1日 「広域石巻圏郷土芸能祭」出演平成8年12月20日 国指定重要無形民俗文化財に指定 平成9年7月12日 「全国民俗文化の祭典IN郡上八幡」出演(岐阜県八幡町) 平成16年2月 管内青年文化祭 審査対象で出場「優秀賞」受賞 平成16年5月30日 宮城県青年文化祭 「努力賞」受賞 平成16年6月1日~ 富山県日枝神社春季例大祭特別協賛奉納行事として出演 平成22 平成24年2月11日 3町合同復興市 平成30年4月30日 大須八幡神社春季例大祭 平成30年5月1日 熊沢五十鈴神社春季例大祭 平成30年5月4日 桑浜羽坂白銀神社春季例大祭 平成30年5月13日 立浜北野神社奉祝祭 令和元年9月18日 秋保神社例大祭神楽奉納(鬼門、魔王退治、日本武尊) 令和元年4月20日 熊沢五十鈴神社春季例大祭 令和元年4月21日 大須八幡神社春季例大祭 令和元年4月27日 桑浜羽坂春季例大祭 令和元年4月29日 立浜北野神社春季例大祭 令和元年5月12日 大浜葉山神社亥年御開扉大祭(12年に一度の祭典) |